一本の値段が800万円もする赤ワイン。そんな奇妙な液体が、この世に実在すると信じられるだろうか。ボトルサイズが大きいわけでもなければ、たっぷりと金箔が浮かんでいるわけでもない。たった750mlしかない「飲む黄金」は、4~5人で飲めば、それこそ30分やそこらでなくなってしまうだろう。そのワインの名は、「神」とまで呼ばれた伝説の醸造家アンリ・ジャイエが生産した「リシュブール・グラン・クリュ 1985」。フランスはブルゴーニュ地方の小さな村で生涯をすごした、ひとりのヴィニュロン(ブドウ栽培農家)の手による最高傑作である。正確な生産本数は明らかになっていないが、当該特級畑の小さな区画から生まれ出たのは、多くても1,000本というところだろう。何がどう凄くて、この男のワインは、世界中の富裕なワイン愛好家たちが血眼になって探し続けているのか。また、このワインが仕込まれたヴィンテージから約40年が経過したいま、まだコルクが抜かれていない「本物」のボトルが、いったい何本現存しているのだろうか。
この記事では、5つのパートに分けて、アンリ・ジャイエの生涯、ブドウ栽培やワイン醸造の特徴、所有・耕作していたブドウ畑、後継者たち、贋作の問題、今日における現代性などについて紹介し、希代のワイン醸造家の姿を浮き彫りにしていきたい。
【vol.1 目次】
1. 宝石より高価なワインに
● 昔はそれでも安かった
● 市中在庫減少による価格上昇
● 逝去と投機的売買の盛り上がり
● 伝説は終わりへと向かうか?
2. アンリ・ジャイエの生涯
● 父が興した蔵に17歳で入る
● メオ・カミュゼとの折半耕作契約、戦中の苦労
● クロ・パラントゥの開墾
● 試行錯誤から生まれた独自の醸造スタイル
● 市場が震えた戦慄のデビュー
● ロバート・パーカーによる神格化
アンリ・ジャイエとは? ~世界で一番高価なワインを造った偶像破壊者
- Vol.1: 宝石より高価なワインに/アンリ・ジャイエの生涯
- Vol.2: アンリ・ジャイエのブドウ栽培
- Vol.3: アンリ・ジャイエのワイン醸造/ワイン熟成
- Vol.4: アンリ・ジャイエが所有・耕作していたブドウ畑
- Vol.5: アンリ・ジャイエの後継者たち/贋作について/まとめ
1. 宝石より高価なワインに
昔はそれでも安かった
アンリ・ジャイエ本人が瓶詰めしたワインが、市場で評判になりはじめたのは、1980年代のはじめである。もともと、安いワインではなかった。彗星のごとく現れ、衝撃の高品質と喧伝され、華々しいデビューを飾ったからだ。そして、ジャイエのワインを口にした人数が増えるにつれ、その人気や評価とともに、価格も急峻な角度で上昇をはじめる。1990年代に入ると、アンリ・ジャイエは、ブルゴーニュ地方の聖地ヴォーヌ・ロマネ村における二大巨頭、ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ(DRC)とドメーヌ・ルロワに、品質面でも価格面でも対抗できる唯一の存在になっていた。それでもジャイエが当時売られていた値段は、特級畑のリシュブールとエシェゾー、唯一無二の一級畑として名高いクロ・パラントゥといった銘柄でも、一本数万円程度と、今から考えると冗談としか思えないものだった。もっとも、1990年代半ば、「世界最高の赤」と一般に評される特級畑ワインのロマネ・コンティが、日本国内において15万円程度で売られていたのだから(正規輸入元のカタログ価格)、当時の高級ブルゴーニュは今と比べ、なんでも安かったのだ。
市中在庫減少による価格上昇
アンリ・ジャイエのワインがこの時期に値上がりを続けたのは、市場での人気・評価のほかにも理由がある。この男が造ったワインは、1980年代末から本数が減りはじめ、2001年ヴィンテージを最後に造られなくなってしまった。この「市中在庫の減少」は、要因として大きい。詳細は次のチャプターで述べるが、ジャイエは三段階に分けて現役からの引退をしていて、そのたびに耕作する畑の面積が減り、応じてワインの本数も減った。最後のヴィンテージ以降、ジャイエのワインはこの世に新しく生まれなくなったため、一本、また一本と飲み手に消費されるたびに、コレクターのセラーに収まったボトルも含めた潜在的な市場在庫の数は減り続け、希少価値が値段の上昇に追い打ちをかけた。かくして、21世紀に入った頃には、ジャイエのワインの多くは、飲んで楽しむのが目的というより、投機対象として売り買いされるのが多くなったように思われる。
それでもまだ、ジャイエのワインは安かった。2005年頃に筆者は、ジャイエの一級畑ワインであるヴォーヌ・ロマネ・ボー・モンの1995(750ml)を、15万円ほど払って手に入れた記憶がある。現在、このワインがいくらになっているか、世界中のワイン市場小売価格を検索できる最大手サイト、ワイン・サーチャーで調べてみると、ヴィンテージ違いの1991年(一般に、1995年と比べると作柄が劣る年)が、420万円ほどだった(もっとも、これは複数のショップから得られたデータの平均値ではなく、米国アトランタにある一軒の店が付けている価格である)。
逝去と投機的売買の盛り上がり
価格上昇にさらなるブーストがかかったのは、2006年にジャイエが、惜しまれつつこの世を去ってからだ。前述のとおり、ジャイエによるワイン生産は、2001年ヴィンテージが最後だから、本人の逝去自体は、市場在庫の数に直接影響を及ぼさない(ただし、2018年に遺族によって蔵出しされ、オークションにかけられたボトル群は別である/後編のチャプターで詳述)。それでも需要がさらに増し、値段が上がり続けたのは、メディアを通じてその死が広く伝えられたために、実情をよく知らないワイン愛好家やプロたちが、投機目的で買いに走ったからであろう。この時期(2010年頃)は、世紀の変わり目に出現した中国・香港というワインの新興巨大市場が、それまでの高級ボルドー一辺倒を脱し、ブルゴーニュのアイコン的銘柄たちに目を向け始めた頃でもある。そう、当産地で輝く綺羅星たちは、アンリ・ジャイエに限らず、急激な値上がりをこの頃に始めたのだ。
そして現在(2024年)、アンリ・ジャイエほか超高級ブルゴーニュのワインらは、いくらになったのか。ジャイエのリシュブール1985が現在、真新しい高級国産車が買えるほどの価格であるのは冒頭で述べた。ただし、これが特異点かというと、そうでもない。ワイン・サーチャーが2023年10月に発表した記事、『世界で最も高いワインたち』に掲載されたトップ10は、以下のとおりだ(アンリ・ジャイエのように、あまりに供給量が少ない銘柄は、あらかじめこの順位表では除外されている)。群を抜いて高額な、ドメーヌ・ルロワのミュジニの平均価格については、ジャイエのリシュブール1985(810万円)に、かなり近いところまで迫っている。それにしても、トップ10のうち9つまでを、片手ほどの造り手による高級ブルゴーニュが占める今の状況は、異常と言うほかない。
順位 | 生産者名/銘柄名 | 生産国・地方 | 平均価格(1ドル=150円で換算) |
1 | ドメーヌ・ルロワ/ミュジニ・グラン・クリュ | フランス・
ブルゴーニュ地方 |
¥7,292,400 |
2 | ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ/ロマネ・コンティ | フランス・
ブルゴーニュ地方 |
¥4,057,950 |
3 | ドメーヌ・ドーヴネ/シュヴァリエ・モンラッシェ・グラン・クリュ | フランス・
ブルゴーニュ地方 |
¥4,006,350 |
4 | ドメーヌ・ドーヴネ/バタール・モンラッシェ・グラン・クリュ | フランス
・ブルゴーニュ地方 |
¥3,817,650 |
5 | ドメーヌ・ドーヴネ/クリオ・バタール・モンラッシェ・グラン・クリュ | フランス・
ブルゴーニュ地方 |
¥3,152,400 |
6 | ドメーヌ・ジョルジュ&クリストフ・ルーミエ/ミュジニ・グラン・クリュ | フランス・
ブルゴーニュ地方 |
¥3,126,000 |
7 | ドメーヌ・ルフレーヴ/モンラッシェ・グラン・クリュ | フランス・
ブルゴーニュ地方 |
¥2,866,350 |
8 | エゴン・ミュラー/シャルツホーフベルガー・リースリングTBA | ドイツ・
モーゼル地方 |
¥2,619,000 |
9 | ドメーヌ・ジョルジュ&クリストフ・ルーミエ/エシェゾー・グラン・クリュ | フランス・ブルゴーニュ地方 | ¥2,534,550 |
10 | ドメーヌ・ルロワ/シャンベルタン・グラン・クリュ | フランス・
ブルゴーニュ地方 |
¥2,130,000 |
(出典:https://www.wine-searcher.com/m/2023/10/the-worlds-most-expensive-wines)
これから、アンリ・ジャイエのワインや、上記リストに掲載されているような高級ブルゴーニュが、さらに価格上昇を続けていくかは、少なくとも短期的には誰にもわからない(為替や株価の正確な短期予測が、いかなる専門家にも不可能であるのと同じである)。高級ワインの価格も、ほかの投機対象品と同じく、非常に多くの要因が複雑に絡み合って動き、決まっている。数十年、というタイムスパンで見た場合には、株価も高級ワインの価格も、右肩上がりの成長を続けてはいるものの、突然の大暴落は、株にもワインにも何度となく襲いかかっている。「長く保有し続けるなら、たぶん上がるだろう」と、これぐらいのことしか、結局のところ言えはしない。
伝説は終わりへと向かうか?
アンリ・ジャイエの生産したワインに限って、今後の値動きを考えればどうなるだろう。筆者が考えるところを述べるなら、今以上の価格になる可能性があるのは、グラン・クリュ(特級畑)またはプルミエ・クリュ(一級畑)から生まれた、良作年のワインに限られるだろうと。この飲み物には寿命がある。ジャイエが造るようなブルゴーニュ赤は、畑の格とヴィンテージの良し悪し、そして保管状況によっては、100年もの熟成能力を発揮するときがある。一方で、それ以外のほとんどの銘柄は、生産されてから10年以内に衰えていくのも事実だ。アンリ・ジャイエが黄泉の国に行ってしまってから、20年が立とうとしている。そろそろ、その「伝説」は終焉を迎えるころだろうし、市場の動きにも反映されていくだろう。
このチャプターを締めくくるにあたり、アンリ・ジャイエ自身が、己のワインに付けられた「法外な価格」を、生前どのように思っていたのかを紹介しておこう。逝去する2年前の2004年、インタヴューに答えてジャイエは次のように話している。
「市場に出てからの価格高騰に比べれば、私の出荷価格など知れているよ。例えば、300ユーロのワインが1250ユーロになるといった具合だ。だがこれは、成功の証なのだ。クロ・パラントゥは伝説のワインになった。古いヴィンテージにはとんでもない値が付いている。数が少ないところに、お客が殺到するからね。自分の人生は波乱に富んでいたが、結果として私は成功したのだよ。とても満足している。買ってくれた人には、精一杯楽しんでくださいとだけ言いたいな」
ジャイエがこう答えてから20年の歳月が過ぎ、その「リシュブール・グラン・クリュ 1985」は、5万ユーロ近い価格で取引されるようになった。草葉の陰から、私たちが暮らす今の俗世を眺める彼は、果たしてどんなふうに感じているのだろう。
2. アンリ・ジャイエの生涯
父が興した蔵に17歳で入る
アンリ・ジャイエは1922年、ヴォーヌ・ロマネ村で生を受けた。父の名はユジェーヌ・ジャイエ、上にはジョルジュ、リュシアンの二人の兄がいた。父もブルゴーニュの人間ではあったが、コート・ドール地区の栽培農家の出ではない。第一次大戦の前に、父ユジューヌはヴォーヌ村で働くようになった。当初は、ブドウ苗の接ぎ木をしたり、木箱の緩衝材を作ったりと、ワイン造りの周辺仕事をしていたが、徐々に畑を買い集め、やがて約3ヘクタールの畑をもつドメーヌを興す。畑の多くは、フィロキセラ後、うち捨てられていた状態であったという。特級畑エシェゾー、一級畑ボーモン、ACヴォーヌ・ロマネ(村名格)といった畑は、設立当初からの所有である。
1939年、兄二人が兵役にとられ人手が足りなくなったので、17歳のアンリは父のドメーヌを手伝いはじめる。のちにブルゴーニュワインの、いや世界中のピノ・ノワール造りを変えることになる、赫々たる醸造家のキャリアはこうして始まった。3年後の1942年、アンリは20歳で結婚する。花嫁の名はマルセル・ルジェといい、農家の娘である。マルセルの叔父はDRCに勤めており、彼女自身も結婚するまでは、DRCの収穫人をしていた。マルセルはブドウ造りを愛し、夫と情熱を分かちあった。
メオ・カミュゼとの折半耕作契約、戦中の苦労
この1942年には、アンリにとって転機となる出来事がもうひとつ訪れる。近隣の名門ドメーヌ、メオ・カミュゼからオファーを受けたのである。「折半耕作の形で、私のブドウの面倒を見てもらえないかな?」、当時ヴォーヌの村長も努めていたエティエンヌ・カミュゼはこう尋ね、アンリは引き受けた(折半耕作とは、貸借した土地でできたブドウから出来たワインを、地主と小作人が半分ずつ分ける方式の借地契約)。この時から耕すようになったのは、ヴォーヌの一級畑ブリュレ、ニュイ・サン・ジョルジュの村名畑、同じく一級畑ミュルジェであった。エティエンヌ・カミュゼには子供がなかったし、その後を継いだ甥のジャン・メオが石油技術者としての生涯をまっとうしたため、契約は1980年代後半まで続いていった(ちなみにジャン・メオは、国有の石油企業エルフの総裁を経て、最後には欧州議会の代議士にまでなった人物である)。
兵として前線で戦うことこそなかったものの、アンリも第二次大戦末期、ドイツの旗色が悪くなりだした頃に徴発されはした。ドイツへと連れていかれ、潜水艦の動力機関を作る機械工として働かされたのだ。ただし、それはわずか数ヶ月間で、アンリは妻のマルセルが病に倒れたのだとドイツ軍に嘘をついて、働くのを免除された。解放されるや、アンリとマルセルの夫妻はドイツ国内には留まらず、主にフランス・ノルマンディー地方にいた親戚や友人たちの家を転々として過ごしたという。ブルゴーニュへと戻れたのは、戦争が終結してからだった。終戦はほかにも果報をもたらしてくれ、兄たちが兵役を終えて家へと戻ってきたこの頃、メオ・カミュゼとの折半耕作の契約がさらに増えている(リシュブールの契約開始はこの時である)。これらの畑のおかげで、一家の暮らしは上を向いた。
クロ・パラントゥの開墾
戦争が終わると、アンリはのちに伝説の畑となる、クロ・パラントゥの開墾に着手する。1951年、合計1.01ヘクタールあるこの畑の大部分を、ロブロ氏という当時の所有者から手に入れたアンリは、自らの手で整地を始めた(その後もアンリは、クロ・パラントゥの小さな区画をいくつか買い足していき、そのすべてを耕作するようになったのが1970年である)。1951年当時のクロ・パラントゥは、19世紀後半のフィロキセラ禍のあと、ブドウ樹が植え直されなかったために、荒廃した藪の状態に戻っていたし、第二次大戦中には、カミュゼ家の従業員がここでキクイモを育てていたのは有名な話だ。アンリは、この畑の地下にある固い石灰岩をダイナマイトで砕き、深く頑丈に張ったキクイモの根を苦労して取り除いた。ピノ・ノワールをようやく植えられたのが、1953年に入ってからだ。この年にはまた、当時村名格の畑であったクロ・パラントゥを一級畑に昇格させるべく、アンリは当局に申請を出し、すんなりと目論見を成し遂げている。開墾後、アンリとメオ・カミュゼは、7:3の比率でこの畑の所有権を分けたが、メオ・カミュゼの持ち分については、例によって折半耕作でアンリが面倒を見るようになった。そのほか、ヴォーヌ・ロマネの村名畑や、ACブルゴーニュの畑(マルサネ村とフィサン村のあいだに位置する、クーシェイ村に位置)を、この時期にアンリは購入している。
試行錯誤から生まれた独自の醸造スタイル
ジョルジュが林業に就いたので、兄弟のドメーヌはもっぱらリュシアンとアンリで運営された。リュシアンが畑を管理し、アンリが醸造というのが当時からの役割分担であった(アンリが一家のドメーヌにおいて、醸造に全責任を負った最初の年は1945年である)。ジョルジュとアンリの持分については、醸造から熟成まですべてアンリがまとめて行った。一方、リュシアンの持分は、やはりアンリの手によって醸造されたが、熟成は本人が行っていた。
アンリの狙いは、最初から品質であった。収量は近隣の生産者の半分程度に抑えていたし、化学肥料の使用も極力避けた。しかしながら、当初の醸造方法は、後に彼が編み出した技術とは異なっており、除梗はほとんどなされず、新樽の比率も高くはなかった。また当時は、仕込んだワインのほとんどを、カーヴ・デズィリー社、アレキシス・リシーヌ社といった大手のネゴシアンに、樽の状態でバルク売りしていた(1950年代からアンリは、全生産量の1~2割だけ、己の名を記したラベルの瓶に詰めていたが、その頃のラベルデザインは、元詰めが本格化したあとのものとは異なっている)。そのうち、この蔵で生まれるワインのスタイルは、天才特有の熱心な探求心によって、徐々に変化していく。畑仕事を兄のリュシアンが担当してくれたので、アンリは醸造に重きを置いて打ち込めた。数限りない実験をセラーで繰り返した結果、1970年代半ばには特有のスタイル――100%除梗、低温マセレーション、100%新樽――が完成する。その頃から、アンリは元詰めの量を増やしていった。
市場が震えた戦慄のデビュー
アンリ・ジャイエが元詰めへと移行したのは、時代的な背景もあった。最初に生産量の大半を元詰めしたのは、1973年ヴィンテージだったと、本人がのちに述懐している。この年には、オイル・ショックのために世界中を不景気が襲い、経営の悪化したネゴシアンたちは、小ヴィニュロンから樽でワインを買い上げられなかったのだ。石油危機がなければ、「そのままワインを、ネゴシアンに売り続けていたかもしれん」と、ジャイエ自身が当時を振り返って述べていたから、「アンリ・ジャイエのワインがない世界線」だってありえたのだ。
かくして元詰めが本格化していったのだが、アンリ・ジャイエの名を世界の愛好家達に知らしめたのは、伝説的な1978年ヴィンテージであった(クロ・パラントゥの全量元詰めが開始されたのも、このヴィンテージからだ)。その輝かしいデビューの顛末について、イギリス人ワインジャーナリストのパトリック・マシューズが著した、『ほんとうのワイン』から引用してみよう。のちに、アメリカを代表するワイン輸入元兼卸商となる、マルティーヌ・ソニエという女性の体験談である(なお、引用の冒頭に登場するアッカドなる人物については、本記事の中編にて解説する)。
丁度アッカドがその名声の、もしくはその悪名の絶頂にいるとき、マルティーヌ・ソニエなる若い女性が、コート・ドールでセラー巡りをしていた。マルティーヌはブルゴーニュ地方の出身で、プリッセという、コート・ドールから80キロほど南に下った村で生まれ育っている。もともと広報の仕事をしていたが、アメリカ人と結婚してカリフォルニアに渡った。だが、結婚生活は長続きせず、マルティーヌは自立する必要に迫られる。まずはサンフランシスコにある酒卸のバイヤーとして働き、その後自身の会社を興した。1979年のクリスマスを間近に控えた折、マルティーヌはヴォーヌ・ロマネで1978年ヴィンテージの試飲をしていた。予約の中に、アンリ・ジャイエという小生産者がいた。50代後半の男で、ソニアは数年前にその男と知り合っていた。彼が元詰めを始めた後のことだ。
「私はDRCの後に、彼の1978年を試飲しに行ったのです。DRCも確かにすばらしかったのですが、ジャイエのワインはそれを凌ぐ『途轍もない代物』と思われました。サンフランシスコとLAで幾つかの小売店に紹介したところ、それは強烈なインパクトをもって受け入れられました。このようにして、ジャイエの名声は高まりはじめたのです」
「私は自分が手に入れたワインについて、決して宣伝しませんでした。やったのはサンプルの提供です。ジャイエのリシュブールを持ってLAへ飛び、実力ある小売店のひとつへ向かったときを、今も覚えています。皆がバイヤーの注意を引こうと躍起になっていましたが、私がボトルをあけた途端、会話が一斉に止みました。『一体全体どこで、そのワインを手に入れたんだい?』ひとりの男性がたずねてきました。そればかりか、すぐにその男性は、自分の勤め先であるキャピトル・レコードの社長宛てに電話を入れたのです。しかし、出たのは秘書で、社長は会議中と答えてきました。男性の返事はこうです。『社長に伝えてくれ。猛烈に緊急の用件だ。これ以上急ぐことは未来永劫ないだろう。我が生涯で最高のブルゴーニュをみつけたんだ!』」
上記の通り、アンリ・ジャイエの名声はアメリカから高まっていった。それにひきかえ、1980年代の初頭のヨーロッパ市場ではまだ、アンリ・ジャイエは無名だったようである。ブルゴーニュワインの最高権威のひとりであるワイン商兼ライター、アンソニー・ハンソンが著した記念碑的労作、『バーガンディ』の初版刊行は1982年だが、そこにアンリ・ジャイエの名はない。
ロバート・パーカーによる神格化
アンリ・ジャイエの神話をアメリカ市場で打ち立てたのは、ワイン評論家のロバート・パーカーでもある。よく言われるが、パーカーの味覚上の嗜好(もしくは偏向)およびその採点システム(100点法)は、ブルゴーニュワインにはあまり適さなかった。しかし、パーカーがその巨大な影響力によって、彼の地にもたらした変化は決して小さくはない。パーカーは、ブルゴーニュワインの評価軸における生産者の比重を、かつてないほどに高めたのだ。この評論家が著書の中で採用した、「*」から「*****」という形式の生産者の格付けは、プロのバイヤーや愛好家の中に浸透していった。この格付けの評価は、ワインそのものの水準だけでなく、生産者の哲学とも密接に関連している。パーカーは、「無濾過」、「低収量」、「新樽比率」といった明快なキーワードに基づき、極端に図式的な生産者分類を行った。行きすぎた単純化を糾弾する声は後をたたなかったが、このキャンペーンは何せ分かりやすかったから、広範な支持を得るに至る。その際の象徴ともなった造り手こそが、アンリ・ジャイエなのである。ジャイエは、パーカーがブルゴーニュの理想として思い描く要素をすべて持ち合わせていた。もちろん、生産哲学の面だけを見れば、パーカーの要件をすべて満たす造り手は少なくない(DRC、ルロワなど)。ではなぜ、アンリ・ジャイエがその筆頭たりえたのか。それは、ひとえにジャイエが、最近になって元詰を開始したばかりの個人であったからに他ならない。ロバート・パーカーには、組織体としてのドメーヌ/メゾンよりも、ヴィニュロン個人に対するシンパシーが強く存在していた。アンソニー・ハンソンは、パーカーが持つこの性向を指して、「ハリウッド的メンタリティによるスター誕生システム」と呼んだが、まことに的確な指摘であろう(ハンソンはこれを、アメリカ人向けの浅知恵と暗に皮肉ったが)。
三度にわたる段階的リタイア
マルティーヌ・ソニエが端緒となった、アンリ・ジャイエの「発見」が1980年、この時ジャイエは58歳である。考えてみれば随分と遅咲きの造り手だ。それから10年もたたない1988年に、メオ・カミュゼとの折半耕作契約終了(1987年)に伴い一線を退き、1995年ヴィンテージをもって「表面上の引退」をしてしまったのだから、その比類なき名声を鑑みれば、短いスターダムである。だが、この期間を通じ、多くの輸入商、ジャーナリストがひっきりなしにジャイエのもとを訪れ、その人となりについて、さまざまなコメントを残していてくれる。
頻繁に指摘されるのが、その若々しさである。実際の年齢より、10~15歳は若く見えるという。イギリス公共放送局BBCが制作したテレビ・シリーズである『ジャンシス・ロビンソンズ・ワイン・コース』には、アンリ・ジャイエに、イギリス最高のワイン評論家ジャンシス・ロビンソンが、インタヴューをする貴重な映像が収録されている(現在はYouTubeで鑑賞可能。本記事末の参考文献一覧に記されたURL参照)。1994年の取材だと思われるから、ジャイエは72歳だが、実にかくしゃくとしている。話が脇にそれるが、この短い取材VTRには「アイドルの素顔」がいろいろと散りばめられており、マニアの皆様は必見だ。白いメルセデスに恥ずかしそうに乗っているとか、セラーの片隅にスモモの砂糖煮やインゲン豆のピクルスが仕込まれていて、それを冬になればパイに入れて食べるとか、「ふつうの農家のおじいちゃん」っぽい側面を垣間見られる。
アンリ・ジャイエの人柄が、謙虚かつ人情味あふれるというのも評判だし、「頭がとても良い」というのも、非常によく言及されるポイントである。そのワインと同じぐらいジャイエの話は面白いとか、世が世なら裁判官にでもなっていたとか、その知性への賛辞は尽きない(実際、ジャイエの娘は裁判官になった)。機知と含蓄に富んだその言葉の数々は、多くのジャーナリストによってご神託よろしく取り上げられている(それらの一部を、後のチャプターで取り上げよう)。実際、ジャイエは、この世代のヴィニュロンには珍しく、1940年代にディジョン大学で醸造の学位を取得している。ジャイエが尊敬してやまない、同じ村の先達ヴィニュロン、ルネ・アンジェルの取り計らいにより、週に一度だけ大学に通って、授業を受ける機会を得たのだという。
先にも述べたように、アンリ・ジャイエには三度の引退があった。一度目は1988年。ドメーヌ・メオ・カミュゼに折半耕作契約で借りていた畑を前年に戻し、次のヴィンテージからは甥のエマニュエル・ルジェを前面に立てて、ジャイエは相談役に退いた。後のチャプターで紹介する、「教師」としてのジャイエの活動は、時間に余裕が出来たこの時以降、盛んになったようである。ただ、この1988年から1995年までの期間については、ルジェが管理するワインの半分(約650ケース)は、アンリ・ジャイエの名前で売られていたし(ルジェと交わした折半耕作契約の取り分)、畑仕事こそルジェに任せていたものの、醸造のほとんどはジャイエ自身の手で行われたと言われている。その関与の程度についてはさまざまな説があるが、結局従前と大きな変化はなかったと見てよいだろう。
二度目の引退は1995年である。年金受給に関する法律の関係で、ジャイエは自らの名でワインを売れなくなった。折半耕作契約の取り分を、ワインでもらうのを禁じられたのである(現金での受け取りのみが認められる)。年金を諦めれば、これまで通りワインを自分の名で売れたのだが、ジャイエはそうしなかった。ただし、年金受給者であっても、若干はブドウ畑を耕しワインを売るのが許されていたので、約0.3ヘクタールのクロ・パラントゥだけを手元に残した。1996年ヴィンテージ以降、商業製品として流通するアンリ・ジャイエのボトルは消滅したが、年間約80ケースのクロ・パラントゥの生産は、2001年ヴィンテージまで続けられた(この時期のジャイエのワインは、その友人と、いくつかの三ツ星レストランにのみ直接売られていたという)。
熱心なファンが耳をそばだてるエピソードとして知られているのが、1997年に起きた異常事態だ。当ヴィンテージに生産されたエマニュエル・ルジェ名義のワインは、すべてアンリ・ジャイエが仕込んでいる。この年、ルジェは体調を大きく崩し、収穫作業や仕込みに一切携われなかった。その穴を埋めてくれたのが、偉大な叔父だったわけである。
エネルギーを失わなかった晩年
21世紀の訪れとともに、我が名を記したボトルを世に出さなくなったジャイエだが、その後も甥のエマニュエル・ルジェを助ける形で、蔵仕事を続けてはいた(2004年のインタヴューでジャイエは、熱波に見舞われた2003ヴィンテージの仕込みがいかに大変だったかを、興奮気味に語っている)。この頃までは、80歳を超えた老人とは思えぬエネルギーを放っていたジャイエだが、次第にその姿をメディアに見せる機会がなくなっていく。それでもジャイエはまだ、畑に、蔵に立ち続けていた。エマニュエル・ルジェは、すでにジャイエが重い病に冒されていた2005年の収穫期に、叔父が無理を押しながら、発酵タンクから試飲を続けた様子を後に語っている。しかしながら、とうとう巨星が墜ちる日がやってきてしまう。2006年の秋に飛び込んできた訃報。死因は前立腺がん。享年84。命日は9月20日。この日から、世界中のブルゴーニュフィルたちは光を失った。ただし、わずかながらもその遺産となったワインたちが、今も残ってはいる。いずれにせよ、この非凡すぎた醸造家の一生が、天寿をまっとうした幸せな歳月だったと、筆者はひたむきに祈りたい。
【主要参考文献】
『ヴォーヌ・ロマネの伝説――アンリ・ジャイエのワイン造り』 ジャッキー・リゴー著(白水社、2005)
『アンリ・ジャイエのブドウ畑』 ジャッキー・リゴー著(白水社、2012)
『ほんとうのワイン――自然なワイン造り再発見』 パトリック・マシューズ著(白水社、2004)
『最高のワインを買い付ける』 カーミット・リンチ著(白水社、2013)
『ワインの自由』 堀賢一著(集英社、1998)
『ワインの個性』 堀賢一著(ソフトバンククリエイティブ、2007)
『ブルゴーニュのグラン・クリュ』 レミントン・ノーマン著(白水社、2013)
Remington Norman, The Great Domaines of Burgundy 2nd Edition, Kyle Cathie, 1996
Clive Coates MW, Côte d‘Or, University of California Press, 1997
Anthony Hanson, Burgundy 2nd Edition, Faber & Faber, 1995
Allen Meadows, The Pearl of the Côte, BurghoundBooks, 2010
Jasper Morris, Inside Burgundy 2nd Edition, BB&R Press, 2021
Jancis Robinson , VTR Jancis Robinson’s Wine Course vol.2, 1994
Corie Brown, Henri Jayer, 84; Celebrated Producer of Burgundy Wines, Los Angeles Times, 2006
Per-Henrik Mansson, Not Quite Retired, Wine Spectator, 1997
Baghera/wines, Henri Jayer: the heritage, 2018
『賃借耕作と折半耕作』 堀賢一著
『クロ・パラントゥ: アンリ・ジャイエが蘇らせた畑』 堀賢一著