アンリ・ジャイエとは? ~世界で一番高価なワインを造った偶像破壊者 vol.4

アンリ・ジャイエがいかに豪腕の醸造家だったとしても、原料ブドウの成る畑が貧弱ならば、生まれでたワインはそこそこでしかなかっただろう。前回紹介したジャイエの言葉、「ワインの出来はテロワールが50%、造り手の腕が50%」の通りだとすれば、品質の半分はブドウ畑で形作られるのだ。その点において、アンリ・ジャイエは幸運なヴィニュロンであった。この男は別に、資金力に富む名門ワイン農家に生まれたわけではない。父が興した小さな家族経営の蔵を、若くして継いだだけである。その時代にはそんな百姓、フランス語でいうところの「ペザン peasant」でも、地道に努力して金を貯めれば、コート・ドールの一級畑や特級畑が買えたのである。

今はもう、時代が変わってしまった。ここしばらくで、最も大きな特級畑の買収劇は、2017年秋、モレ・サン・ドニ村にある7.5ヘクタールの特級畑クロ・ド・タールが、フランス有数の富豪フランソワ・ピノー率いるアルテミス・グループに売却された取引だ。その売却価格は、推定2~2.5億ユーロとされていて、ワイナリー建屋・設備や瓶・樽・タンクに入った在庫を考えなければ、ヘクタールあたり約3,000万ユーロ(2024年6月の為替レート、1ユーロあたり170円で換算して51億円)になる。それから7年間、さらにコート・ドールでは畑の価格が上昇を続けていて、2023年時点ではあらゆる階層の畑の平均価格でさえ、ヘクタールあたり100万ユーロ(1.7億円)に近づいた。これは、農地としてはべらぼうな金額で、まともな算盤では減価償却の計算をする気にすらならない。

歴史にイフ if はないのだが、もしジャイエが現代の醸造家であったなら、これほどの名声を築けなかっただろう。圧倒的なブドウ畑のラインナップが、そもそも手元になかっただろうから。ワイン造りの腕を買われ、どこか大きなメゾンで仕込みを任されたかもしれない。あるいは、マイクロネゴシアンを興し、栽培家から少量買い付けた、そこそこによいブドウを扱っていたかもしれない。手がけたワインにはもちろん高値がついただろうが、神格化され伝説になった今の事態は、おそらく到来しなかったのではないか。

5回シリーズで送る本記事、パート4にあたる今回は、アンリ・ジャイエが所有・耕作していたブドウ畑について、紹介していこう。

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【vol.4 目次】
6. アンリ・ジャイエが所有・耕作していたブドウ畑
 ● 特級畑リシュブール
 ● 特級畑エシェゾー
 ● 一級畑クロ・パラントゥ
 ● その他のヴォーヌ・ロマネ村の畑
 ● ニュイ・サン・ジョルジュ村の畑
 ● その他の畑

6. アンリ・ジャイエが所有・耕作していたブドウ畑

特級畑リシュブール

ヴォーヌ・ロマネ村の中心に位置する6つの特級畑のひとつで、ロマネ・コンティの北隣に位置する。総面積は8.03ヘクタールで、ふたつの小区画(リュー・ディ)、すなわち「レ・ヴェロワイユまたはリシュブール」(2.98ヘクタール)と、「レ・リシュブール」(5.05ヘクタール)に分かれる。ロマネ・コンティなどの単独所有畑を除く、つまりは複数の所有者がいるヴォーヌ・ロマネAOC域内の特級畑の中では、最高位にある畑だとされ、色が濃く、壮麗でボディの強いワインとなる。アンリ・ジャイエはこの畑を、第二次大戦終戦直後、メオ・カミュゼから折半耕作契約で借りて、1987ヴィンテージまでワインを造っていた。自社畑産ではないものの、アンリ・ジャイエの実質的なフラッグシップで、最も高い価格が付くのがこの畑からのワインである。

ジャイエが借りていた、メオ・カミュゼ所有の面積は、0.34ヘクタールで(ワインの生産量にして2または3樽=750ml瓶でおよそ600または900本)、2区画に分かれている。ひとつは、「レ・ヴェロワイユまたはリシュブール」の小区画(リュー・ディ)の西端(斜面最上部)に0.30ヘクタール、もうひとつは「リシュブール」の小区画(リュー・ディ)に0.04ヘクタール。ともに、vol.3 で解説した一級畑クロ・パラントゥに隣接している。アンリ・ジャイエによれば、所有面積の大半を占めるレ・ヴェロワイユのほうが、全体としては東向きながら、わずかに北にも傾斜しているため、2、3日ほど果実の摘み取りが遅くなるのだそうだ。そのため、レ・ヴェロワイユのワインはアルコール度数が約1度低く、酸も高くなる。

ブルゴーニュワインの権威であるアレン・メドウズは、アンリ・ジャイエのリシュブールについて、一般にオフとされる1981、1984といったヴィンテージですら、光輝く出来映えだったと論評している。1978、1985のような卓越した年に到達する、そびえるような高みについては言うまでもない。

特級畑リシュブール

特級畑エシェゾー

ヴォーヌ・ロマネ村の北隣にある、フラジェ・エシェゾー村が抱えるふたつの特級畑の片方。総面積は37.69ヘクタールと広く、11もの小区画(リュー・ディ)に分かれる。広い畑の宿命で、区画によって条件の良し悪しがかなりある(大まかに言って、斜面下部の区画は条件が悪い)。ブルゴーニュワインの権威であるジャスパー・モリスは、ただひとつ、「エシェゾー」の小区画(リュー・ディ)のみが特級畑の名に値し、残り10は一級畑相当だとの見解を示している。

ジャイエ家がこの特級畑を手にしたのは、アンリの父ユジューヌ・ジャイエが蔵を興した頃で、息子の三兄弟は合計1.06ヘクタールと、そこそこの面積を保有していた。所有地はふたつの小区画(リュー・ディ)に分かれていて、すなわち「レ・トゥルー」(0.63ヘクタール、兄のジョルジュとリュシアン・ジャイエの持ち分)、「レ・クリュオ」(0.43ヘクタール、ジョルジュとアンリ・ジャイエの持ち分)である。アンリ・ジャイエが自らの名で瓶詰めしたエシェゾーでは、最終ヴィンテージとなった1995まで一貫して、己が所有するレ・クリュオの小区画(リュー・ディ)に植わる、古木の果実のみを使っていた(アンリは、石が多く痩せた土をもつ、この小区画を愛してやまなかったそうだ)。一方でアンリは、兄ジョルジュ・ジャイエの名の入ったエシェゾー(非常に似通ったラベルだが、中央の紋章が異なる)も、醸造・瓶詰めしていて、こちらはレ・トゥルーとレ・クリュオのブレンドであった。この2種類の「アンリ・ジャイエのエシェゾー」は、常にレ・クリュオの区画だけを使った「アンリ版」のほうが、高値で取引されている。畑のポテンシャルが劣ると評価される、レ・トゥルーの果実を含むだけ、「ジョルジュ版」が割引されるのには合理的な根拠がある。

なお、リュシアンは、アンリには畑を託さず、1985年から保有するレ・トゥルーの区画を甥のエマニュアル・ルジェに預けた(ただし、1978年から1990年までは、リュシアン・ジャイエのラベルによるエシェゾーも瓶詰め・発売されている)。1987年にはジョルジュも、持ち分であるエシェゾーの一部をルジェに預け始め、続いて1995年にはアンリも引退してエシェゾーの畑をルジェに渡したから、ルジェが仕込むエシェゾーの構成は、年を追うごとに少しずつ変化していっている。現在、エマニュエル・ルジェは2種類のエシェゾーを瓶詰めしており、特記がないラベルと、「ドメーヌ・ジョルジュ・ジャイエ Domaine Georges Jayer」と上部に記されたラベルがある。

フラジェ・エシェゾー村とヴォーヌ・ロマネ村の特級畑地図

一級畑クロ・パラントゥ

vol.1でも記したように、アンリ・ジャイエ自身が、その大部分を1950年代に手に入れ、苦労して開墾したブドウ畑である(その後の買い足しにより、1970年代には全面積を耕作するようになった)。総面積1.01ヘクタールのうち、0.715ヘクタールをジャイエ家が、0.295ヘクタールをドメーヌ・メオ・カミュゼが所有している(ジャイエ家の分については、現在エマニュエル・ルジェが貸借している)。1987年までは、メオ・カミュゼの持ち分もジャイエが折半耕作契約のもと、畑仕事とワイン生産の両方を請け負っていたから、実質的な単独所有状態であった(なお、1984年から1987年にかけては、メオ・カミュゼのラベルを貼ったクロ・パラントゥも少量生産されたが、仕込んだのはアンリ・ジャイエである)。甥のエマニュアル・ルジェが、自身のラベルでクロ・パラントゥの瓶詰めを始めたのは、1989年ヴィンテージからだ。

畑そのもののポテンシャルについては、過去の格付けがさほど高くないなど、さまざまな意見がある(アンリ・ジャイエが最初に手に入れた1950年代初めには、まだ村名格の畑だったのを、アンリが当局に昇格申請を出したのが認められ、1953年に一級畑となった)。ただし、ことアンリ・ジャイエの手によるクロ・パラントゥについては、エシェゾーを品質面で上回る、蔵でナンバー2のワインだという評価が定着している。一種の「冷たさ」にも似た、独特の凝縮したミネラル風味と酸のキレがあり、若いうちは厳しい顔を見せるが、長期熟成能力は凡百の特級畑産ワインを軽くしのぐ。アンリ・ジャイエの伝説のスタート地点となった畑で、さまざまな意味でこの偉大な醸造家を象徴する記号となっている。

名前の「クロ」のスペルが、石垣に囲まれた畑をブルゴーニュで意味する一般的な用語の「Clos」ではなく、「Cros」なのが興味深い。これは、石灰質を意味する「crais(クレ)」の語がなまった言葉か(ジャン=ニコラ・メオの説)、地面の窪みを意味する「creux(クルー)」がなまった言葉らしい(エマニュエル・ルジェの説)。パラントゥは、昔の土地所有者の名前のようだ。東北東を向いたやや冷涼な場所で、痩せた表土は砂や石を多く含むのが、上述したワインの特徴につながると考えられている。

リシュブールが東側と北側に隣接する、小さなブドウ畑である。周囲を畑に囲まれていて、直接通じる道がない、つまりは徒歩でしかアクセスできず、立地としては不便極まりない。そのため、フィロキセラのあと見捨てられ、ブドウ樹の植え替えがなされなかった。ジャイエも、この畑については馬で耕作していたのだが、それはトラクターで乗り入れられなかったからだ。

ブドウ畑に立つアンリ・ジャイエ

その他のヴォーヌ・ロマネ村の畑

アンリ・ジャイエは、上記3つの特級畑・一級畑に加えて、いくつかの畑をヴォーヌ・ロマネ村に所有していた。一級畑レ・ボーモン Les Beaumontsについては、特級畑エシェゾーに隣接する斜面下部の小区画(リュー・ディ)である 「レ・ボーモン・バ」 に、0.10haをアンリが所有していた(兄弟をあわせた一族全体の持ち分は、0.23ヘクタール)。もうひとつ、ワインを生産していたこの村の一級畑が、オー・ブリュレ Aux Brûlées である。こちらはジャイエ家の所有ではなく、ドメーヌ・メオ・カミュゼとの折半耕作契約によって請け負っていた畑で、リシュブールと同じく1987が最後のヴィンテージとなった(0.73ヘクタール)。村名格のヴォーヌ・ロマネの畑も、アンリ所有の分として0.28ヘクタールがあった。一族全体の畑は全6区画、1.4ヘクタールに及ぶが、アンリが耕しワインを造っていたのは、「オー・ソール」、「レ・バロー」、「ヴィニュー」の3区画で、標高の違う区画を同じタイミングで収穫し、仕込むのを好んでいた(そうしたワインは、「キュヴェ・ロンド」と呼ばれる)。

ニュイ・サン・ジョルジュ村の畑

ヴォーヌ・ロマネ村のひとつ南に位置するAOC、ニュイ・サン・ジョルジュにも、アンリ・ジャイエが耕作し、ワインを造る畑があった。一級畑は、レ・ミュルジェ Les Meurgers で、こちらもメオ・カミュゼとの折半耕作契約による請け負いだったから、1987年までの生産である(0.75ヘクタール)。ニュイ村の北部、ヴォーヌ村との境に比較的近いところに位置する畑だ。同じニュイ村の北側に、ジャイエ家は村名格の畑も所有していて、アンリは村名格ニュイ・サン・ジョルジュの赤ワインも生産していた。こちらの畑は、現在エマニュエル・ルジェに引き継がれている(合計0.77ヘクタール)。

その他の畑

上記のほか、ジャイエ家はAOCブルゴーニュの畑と、AOCブルゴーニュ・パス・トゥ・グランの畑を所有していて、アンリ・ジャイエはこの両アペラシオンから、比較的安価な赤ワインも生産していた。アンリ自身が、どれだけの面積を所有していたかは、現存する資料からはたどれないものの、甥のエマニュアル・ルジェが引き継いでいるのが、AOCブルゴーニュが0.29ヘクタール、AOCブルゴーニュ・パス・トゥ・グランが約1ヘクタールである。前者は、ヴォーヌ村からは少し北へと進んだ場所、コート・ドール北端のマルサネ村(AOC)とフィサン村(AOC)の間にあるクーシェイ村に植わる、ピノ・ノワールの畑。樹齢50年というから、植えたのはおそらくアンリであろう。後者は、フラジェ・エシェゾー村に隣接する、ジリィ・レ・シトー村に植わる、ピノ・ノワールとガメの畑で、こちらも樹齢は50年に達している。この2銘柄は、早飲み用に造られたワインであるがゆえ、そのほぼ全数が消費されてしまっており、(贋作を除き)オークション市場などで今日見かけることは、ほぼない。

ヴォーヌ・ロマネのブドウ畑

最後に余談をひとつ。長年、ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ(DRC)の共同経営者を務めた、ヴォーヌ村の名士、オベール・ド・ヴィレーヌ(2022年に退任)は、アンリ・ジャイエと親しかった。ジャイエはド・ヴィレーヌに向かい、「一生に一度でいいから、やってみたいことがある。ロマネ・コンティを、この手で仕込んでみたい」と、語ったことがあるそうだ。「DRCが全部除梗していたなら、もっといいワインになる」と、弟子のジム・クレンデネンに対し、半ば冗談でジャイエは話したこともある。醸造家と畑の組み合わせは、運と巡り合わせが決めるもので、本人や周囲の期待通りにはもちろんいかない。それでも、歴史にイフ if があるならば……と、想像をたくましくするのは、なかなかに楽しい。

パート5に続く


【主要参考文献】
『ヴォーヌ・ロマネの伝説――アンリ・ジャイエのワイン造り』 ジャッキー・リゴー著(白水社、2005)
『アンリ・ジャイエのブドウ畑』 ジャッキー・リゴー著(白水社、2012)
『ほんとうのワイン――自然なワイン造り再発見』 パトリック・マシューズ著(白水社、2004)
『最高のワインを買い付ける』 カーミット・リンチ著(白水社、2013)
『ワインの自由』 堀賢一著(集英社、1998)
『ワインの個性』 堀賢一著(ソフトバンククリエイティブ、2007)
『ブルゴーニュのグラン・クリュ』 レミントン・ノーマン著(白水社、2013)
Remington Norman, The Great Domaines of Burgundy 2nd Edition, Kyle Cathie, 1996
Clive Coates MW, Côte d‘Or, University of California Press, 1997
Anthony Hanson, Burgundy 2nd Edition, Faber & Faber, 1995
Allen Meadows, The Pearl of the Côte, BurghoundBooks, 2010
Jasper Morris, Inside Burgundy 2nd Edition, BB&R Press, 2021
Jancis Robinson , VTR Jancis Robinson’s Wine Course vol.2, 1994
Corie Brown, Henri Jayer, 84; Celebrated Producer of Burgundy Wines, Los Angeles Times, 2006
Per-Henrik Mansson, Not Quite Retired, Wine Spectator, 1997
Baghera/wines, Henri Jayer: the heritage, 2018
『賃借耕作と折半耕作』 堀賢一著
『クロ・パラントゥ: アンリ・ジャイエが蘇らせた畑』 堀賢一著

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