ワイン・ヴィンテージ解説「1946」 ~ 偉大なヴィンテージに挟まれ忘れられた困難な年

ワインは毎年、秋が来れば仕込まれる。偉大と称されるワインは皆、ブドウが摘まれ、酵母の力で酒に変わった年――ヴィンテージをラベルに記している(シャンパーニュなどで一部例外はあるが)。好天続きで、労せずして優品が量産されたような年もあれば、雨、霜、雹、熱波といった天候イベントによって、造り手が唇を噛んだ年もある。ただ、どれひとつとして同じ年はなく、優れたワインはどこの地域の産であれ、ヴィンテージの個性が刻印されている。

本連載では、第二次世界大戦が終わった年から現在に至るまでのヴィンテージを、世相や文化とともに、ひとつずつ解説していく。ワイン産地の解説としては、フランスの二大銘醸地であるボルドー、ブルゴーニュを中心とするが、折にふれて他国、他産地の状況も紹介していく。

本記事では、1946年を紹介しよう。優れたワインが皆無なわけではないながらも、偉大なヴィンテージに挟まれ、すっかり忘却の淵に沈んでしまった年である。

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【目次】
1. 1946年はどんな年だったか?
 ● 世界の出来事
 ● 日本の出来事
 ● カルチャー(本、映画など)
2. 1946年にはどんなワインが造られたか?
 ● ボルドーワインの1946年ヴィンテージ
 ● ブルゴーニュワインの1946年ヴィンテージ
 ● その他の産地
 ● 伝説のワインは生まれたか
3. 1946年ヴィンテージのまとめ


1. 1946年はどんな年だったか?

世界の出来事

前年に終結したばかりの、第二次世界大戦の余波を受けた揺れが続いており、まださまざまな側面で、戦後の混乱のさなかにあった年である。

ワイン王国フランスでは、第四共和政がこの年の10月から始まり、1958年まで続いた。新憲法がフランス国民によって承認され、生まれた政体である。議会の権限が強く、小党派が分立したため、政局は不安定だった。フランスで第四共和政が始まる4ヶ月前の6月には、イタリアで王政が廃止され、今に通じるイタリア共和国が成立している。ドイツでは、ナチスの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク国際軍事栽培の、最終判決がこの年の10月に出ており、ヒトラー、ゲッペルス、ヒムラーら、すでに自殺していた人間たちを含め、大勢の幹部に死刑が言い渡された。

ニュルンベルク国際軍事裁判の被告席。前列一番奥に座るのが、全ドイツ軍最高位の国家元帥で、ヒトラーの後継者だったヘルマン・ゲーリング

世界規模の出来事としては、前年に発足した国際連合の第1回総会が、1月に開かれている。ただ、世界が恒久的な平和に向かったわけではまったくなく、東西冷戦がはっきりと形になりはじめたのもこの年だった。象徴となった、「鉄のカーテン」という言葉を含む演説を、イギリスの首相チャーチルが行なったのが、3月5日だ。

アメリカ合衆国では、戦時中の統制経済が解かれたのが引き金になって、インフレが生じ、ストライキが多発した。一方で、戦争からの帰還兵たちが家庭に戻って出生率が急増、幸せなベビーブームが始まったのもこの年である(注:米国のベビーブームの定義には揺れがあり、1950年以降の誕生から始まるとする説もある)。

日本の出来事

GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による占領統治が続いたこの年も、日本社会は外圧により大きく変わり続けた。その始まりは1月1日、昭和天皇によるいわゆる「人間宣言」だ。GHQによる指令は、その後も1月4日の公職追放、9月の財閥解体方針発表などなど、この年を通じて下されていく。そんな中、4月には戦後はじめての衆議院総選挙が行なわれ、参政権を得た女性議員が39名誕生した。現在まで改正されずにいる日本国憲法が、議会で成立したのが10月7日である(11月3日公布)。極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)も、この年の5月に開始された。

日本国憲法の原本

カルチャー(本、映画など)

日本では、芥川賞も直木賞も戦争のために中断されていた時期で(1945年から1948年まで)、当然ながら受賞作はない。この年に、日本で刊行された書籍でベストセラー1位になったのは、新聞記者として戦時報道に携わった森正蔵によるルポ、『旋風二十年』だ。戦時中の検閲により、公表できなかった事件や事実を一挙に放出した本書を、国民はむさぼり読んだという。太平洋の向こうのアメリカでは、ジャーナリスト・小説家のジョン・ハーシーが、原爆投下直後の広島を取材してまとめたルポ、『ヒロシマ』が、この年のベストセラー第3位に入った。6名の被爆者の声を拾った本作は、後年20世紀アメリカジャーナリズムのトップ100で、第1位に選ばれている。この年のノーベル文学賞を受賞したのは、『デミアン』、『車輪の下』などの作品で知られるスイスの小説家・詩人、ヘルマン・ヘッセだった。

日本映画については、この年に復刊した老舗映画雑誌『キネマ旬報』が年間第1位に選んだのが、木下惠介監督による『大曾根家の朝』である。生涯にわたり、木下の好敵手であった黒澤明がメガホンをとった『わが青春に悔なし』も、この年のキネ旬の第2位にしっかり入っている。アメリカ映画だと、この年のアカデミー賞作品賞は、ビリー・ワイルダー監督の『失われた週末』である(公開は前年の1945年)。同作品は、この年に始まった第1回カンヌ国際映画祭でも、最高賞のグランプリ(現在のパルム・ドール)をさらい、初めてのダブル受賞例となった(ただし、この年のカンヌのグランプリは1作品ではなく、11作品が選ばれている)。もうひとつ、この年の作品で忘れてはならないのが、ハワード・ホークス監督、ハンフリー・ボガード主演の無敵デュオが世に出したフィルム・ノワールの金字塔、『三つ数えろ』である。

フランスで話題をさらった作品は、当代フランスを代表する文豪ジャン・コクトーが、自ら監督・脚本を担当した『美女と野獣』。同じ原作からアニメ映画化を企画していたウォルト・ディズニーが、本作を目にして腰が引け、お蔵入りにしたという逸話が残っている(その45年後に、ディズニーの遺した会社によって、結局アニメ化はされるのだが)。イギリスでは、巨匠デヴィッド・リーン監督が、19世紀英国の文豪ディケンズの高名な小説を原作に撮影した作品、『大いなる遺産』が封切られた。イタリアでは、ネオレアリズモを牽引したふたりの偉大な監督、ロベルト・ロッセリーニによる『戦火のかなた』、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の『靴磨き』がこの年の公開で、いずれも映画史に残る名作である。

ポピュラー音楽の界隈では、アメリカで歌手、ラジオ&テレビパーソナリティ、俳優と多面的な活躍をした、ペリー・コモが歌った 『プリズナー・オブ・ラブ』が、この年のビルボードチャートで最高位に輝いた。もともとは、1931年に書かれた曲のカヴァーで、後年には「ソウルの帝王」の異名をとる、ジェイムズ・ブラウンによってもカヴァーされている。今でも有名な歌い手では、フランク・シナトラの『ファイヴ・ミニッツ・モア』が、この年のビルボード年間第4位である。フランスでは、伝説のシャンソン歌手エディット・ピアフの代表曲のひとつ、『ラ・ヴィ・アン・ローズ』がこの年に生まれた。

この年に生を受けた著名人としては、米国共和党のドナルド・トランプ大統領が、ご時世的にはまず挙げられるだろう。民主党のビル・クリントン元大統領も、同じ年の生まれだ。カルチャーの世界だと、イギリスのロック歌手フレディ・マーキュリー、アメリカの映画監督スティーヴン・スピルバーグ、小説家では日本の中上健次が、1946年に誕生した。中上は1976年、『岬』で第74回芥川賞を受賞し、戦後生まれで初めての芥川賞作家となっている。

2. 1946年にはどんなワインが造られたか?

ボルドーワインの1946年ヴィンテージ

まずまず悪くないとみる者、青臭く感心しない断じる者と、識者の中でも評価が分かれるヴィンテージ。いずれにせよ、偉大な1945年と1947年に挟まれたために、この年は人々に忘れられてしまった。生産量のほとんどが、若い段階で消費されてしまっていて、今ではほとんど見つからない。

芽吹きが始まったのは3月24日。降雨が不足ぎみの天候が続いていたので、4月初旬の大雨によって、ブドウ樹はうるおい、梢の生長が早まった。左岸では、4月の末にサン・ジュリアンとメドック南部で、5月12日にポイヤックで、それぞれ遅霜の被害が局地的に生じている。開花は6月上旬だったが、折悪くその時期から雨が降り始め、最終的には川が氾濫するまでになった。その後は気温が上がらず推移したが、6月末になってようやく夏らしくなってきたかと思った矢先、7月2日に40℃近い酷暑が到来している。この暑さのせいで、果実の3分の1が使い物にならなくなってしまう。7月から8月上旬にかけては、ほどよく夏らしい気温だったが、8月中旬に気温が下がり、成熟に影響が出始めたため、その月の終わりには、造り手たちのあいだに悲観的なムードが広がっていた。9月は、短期間気温が上がったかと思えば、また雨が降るというのの繰り返しで、摘み取りの開始は遅れ、ほとんどの畑では9月30日頃になった。10月4日、5日はそれぞれ夜に豪雨が降ったが、それを除けば収穫は理想的な条件下で、10月前半に実施されている。

ソーテルヌでは、夏の雨が少なかったために、収穫が後倒しになった。イケムにおいて、摘み取りの大部分は11月に入ってからで、最後に房がハサミで切りとられたのは、11月19日だった。

雨の中でのカベルネ・ソーヴィニョンの収穫(シャトー・ラ・ラギューヌにて)

ブルゴーニュワインの1946年ヴィンテージ

ボルドーと同じく、1946年のブルゴーニュも冴えず、パッとしなかった。1945、1947という高い双璧に挟まれて、という事情も同じである。偉大なクリマのワインは長期熟成に耐えたそうだが、今日目にする機会はほとんどない。

前年の激しい霜のダメージが、この年のブドウ樹にまで残りはしなかったのだが、晩春の嵐のせいで、ジュヴレやブロションの村にある畑で地滑りがおきた。7月下旬から8月初旬にかけては暑く、8月2日には40℃近くに達している。8月10日には雹が降って竜巻がおこり、コート・ド・ニュイでは大きな被害が出た。そのすぐあとから気温が下がり、9月のはじめまで続いたため、果実の成熟が遅れてしまっている。収穫開始の宣言が、コート・ド・ボーヌで出されたのは9月26日だが、まだ気温は低く、雨も多かった。収量は、土地によって程度の差はあるものの、平年より低めとなった年である。

仕上がったばかりのワインの評価は、当初は分かれていて、その理由は非常に強い酸味にあった。とはいえ、赤は、しなやかなで飲みやすいものの、それ以上ではなく、力強さに欠けているというのが、ほぼ一致した見立てである。白は、赤よりも若干評価が高かった。

その他の産地

フランスの産地は、総じてイマひとつだった。ローヌは、北部・南部ともオフ・ヴィンテージだとされているし、ロワール、アルザスも同様だ。シャンパーニュでも、この年にヴィンテージ入りのボトルを詰めたメゾンはほぼない。イタリアも、どの州をとっても、優れているとは言いがたいワインしか出来なかった様子だ。ドイツは、まずまず普通の年という評価で、収量が前年の倍になったというのが特徴だが、今日まで残っているボトルはまあ見つからない。ポルトガル北部のポート(ポルト)でも、果実の出来映えが不均一で、この年にヴィンテージ宣言をし、年号入りの瓶詰めをしたハウスはないようだ。ポルトガル領のマデイラ島も、この年は水準以上のワインを産み出せなかった。

1946年に、傑出したワインが生まれたほぼ唯一の産地が、カリフォルニアである。ただ、まだまだワイナリーの数が少なかった時代だし、「パリスの審判」の前で、ワイン産地として国際的な認知も受けてはいなかったため、今日このヴィンテージのカリフォルニアを飲むのは絶望的に難しい。

伝説のワインは生まれたか

ボルドーは、全体としてオフの年というイメージが強いものの、中には傑出したワインもあった。古酒の神様マイケル・ブロードベントは、左岸五大シャトーの中ではムートンを最も高く評価していて、「最初に記録をした1971年時点では、びっくりするほどよかった。深い色をしていて、豊潤で果実風味あふれる、典型的なムートンのカベルネの香りがした。その当時は大柄なワインで、45年よりも飲み頃だと思われた。…(中略)…最後に飲んだとき(1989年)も、まだ豊潤かつ果実味豊かだったが、酸が目立っていた。ブラインドで飲んで、47年か49年のどちらかだと思った」とコメントし、五つ星中の四つ星を献上している。ボルドーのヴィンテージ評価に関する大著を著した、ワイン評論家のニール・マーティンは、2022年に飲んだサンテミリオンの一級Bシャトー、フィジャックの蔵出し品について、「驚くほどすばらしい出来映え」だったと絶賛した。

ブルゴーニュにも、長生きした秀逸なボトルはあったようだ。当産地の権威であるジャスパー・モリスは、2000年冬に開けたルーミエの特級ミュジニが、「夢のような芳香をもち、翌朝、瓶底の澱にもそれが感じられた」と記している。マイケル・ブロードベントが挙げるのは、アルマン・ルソーのシャンベルタンだ(2000年試飲、五つ星中三つ星)。ブルゴーニュのヴィンテージについての大著を著した評論家、アレン・メドウズは、DRCのラ・ターシュとリシュブール、ルーミエのボンヌ・マールに対し、このヴィンテージのワインへの得点としては一番高い、93点を与えている。

1946年について、ワイン評論家ロバート・パーカーが、100点満点をつけた銘柄はない。

しかし、伝説のボトルはこの年にも生まれた。カリフォルニア州ナパ・ヴァレーにある、1900年創設の超老舗ワイナリー、ボーリュー・ヴィンヤードによるものだ。ナパ南部のカーネロス地区に植えられたピノ・ノワールが、世紀の一本を産んだ。これは、奇蹟に近い。今でこそ、カリフォルニアでは北から南まで、多くの産地で多くの造り手が、卓越したピノを詰めるようになった。しかし、1990年代に入るまでは、ごく少数の例外を除いて、カリフォルニアのピノには「失敗作」しかなかったのだ。

偉大なるボーリューのピノ 1946を仕込んだのは、当時この蔵で醸造責任者をしていた、故アンドレ・チェリチェフ(1901-1994)だ。1917年のロシア革命時にアメリカへと渡ってきた亡命者で、醸造家・コンサルタントとして、禁酒法後のカリフォルニアワインをおおいに発展させた。チェリチェフ自身が、「伝説」と呼ばれる人物である。しかし、この男をもってしても、ノウハウが皆無だった当時、ピノ・ノワールの栽培・醸造は難敵だったようで、「神がカベルネ・ソーヴィニヨンを創り、悪魔がピノ・ノワールを創った」という、あまりに有名な言葉を残している。

この時代のボーリュー・ピノは、マイケル・ブロードベントも著作の中で、非常に高く評価している。アメリカ国内では、カリフォルニアワインの専門家であるジェイムズ・ローブが、2006年に発表した記事の中で、1946、1947の両ヴィンテージを激賞した。チェリチェフ自身は、1946が最良だと生前述べていたようだ。

アンドレ・チェリチェフの生涯を追った2017年のドキュメンタリー・フィルム、『André – The Voice of Wine』のポスター

3. 1946年ヴィンテージのまとめ

地球温暖化が進んだ今日とは違って、ヨーロッパの主要産地では、天気が悪いとブドウが熟さず、どうにもならなかった。栽培や醸造のテクニックも未熟・未発展だったから、「悪いなりにどうにかする」術もなかった。それでも、ボルドーやブルゴーニュで、かなり高い水準のワインを世に出した生産者がいたのは驚きだし、手放しの称賛に値する。前後の偉大なヴィンテージに挟まれ、早々に買い手、飲み手たちの脳内から消えてしまったのは、ワインの世界で時折起こる不幸だが、これは仕方ない。

しかし、大西洋の向こう側、カリフォルニアの地でボーリューが、このヴィンテージを救った。ピノだけでなく、そのカベルネも傑出の域に達していたという。こうしたワインたち、おそらくは当のワイナリーにもほとんど在庫はないだろうし、アメリカ国内の蒐集家でも所有している人はそういまい。要するに、もう飲むチャンスはない。しかし、カリフォルニアワインの一里塚として、その名が歴史には残った。どんな年でも、世界のどこかのワイン産地で、ドラマは起きている。


【主要参考文献】
『世紀のワイン』 ミッシェル・ドヴァス著(柴田書店、2000)
『ブルゴーニュワイン100年のヴィンテージ 1900-2005』 ジャッキー・リゴー著(白水社、2006)
『ブルゴーニュワイン大全』 ジャスパー・モリス著(白水社、2012)
Jasper Morris, Inside Burgundy 2nd Edition, BB&R Press, 2021
Jane Anson, Inside Bordeaux, BB&R Press, 2020
Stephen Brook, Complete Bordeaux 4th Edition, Mitchell Beazley, 2022
Allen Meadows, Burgundy Vintages A History From 1845, BurghoundBooks, 2018
Michael Broadbent, Vintage Wine, Websters, 2006
Steven Spurrier, 100 Wines to Try before you Die, Deanter, 2010
Robert Parker’s 100-Point Wines, Wine-Searcher
Libbie Agran, André Tchelistcheff (1901–1994), Wine History Project of San Luis Obispo County, 2018

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