ワイン・ヴィンテージ解説「1945」 ~ 戦後のはじまりを飾った大勝利の年

ワインは毎年、秋が来れば仕込まれる。偉大と称されるワインは皆、ブドウが摘まれ、酵母の力で酒に変わった年――ヴィンテージをラベルに記している(シャンパーニュなどで一部例外はあるが)。好天続きで、労せずして優品が量産されたような年もあれば、雨、霜、雹、熱波といった天候イベントによって、造り手が唇を噛んだ年もある。ただ、どれひとつとして同じ年はなく、優れたワインはどこの産地のものであれ、ヴィンテージの個性が刻印されている。

本連載では、第二次世界大戦が終わった年から現在に至るまでのヴィンテージを、世相や文化とともに、ひとつずつ解説していく。ワイン産地の解説としては、フランスの二大銘醸地であるボルドー、ブルゴーニュを中心とするが、折にふれて他国、他産地の状況も紹介していく。

それではまず、フランスほか連合国が世界戦争の勝利に沸き立った、1945年からはじめよう。

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【目次】
1. 1945年はどんな年だったか
 ● 世界の出来事
 ● 日本の出来事
 ● カルチャー(本、映画など)
2. 1945年にはどんなワインが造られたか
 ● ボルドーワインの1945年ヴィンテージ
 ● ブルゴーニュワインの1945年ヴィンテージ
 ● その他の産地
 ● 伝説のワインは生まれたか
3. 1945年ヴィンテージのまとめ


1. 1945年はどんな年だったか?

世界の出来事

第二次世界大戦が終結したのがこの年だ。いわゆる「戦後」が訪れ、ワイン造りにおいても、この年がなんとなくひとつの区切りになっている。

ワイン王国フランスは、第二次大戦中の1940年以降、戦火にしっかり見舞われてきた。シャンパーニュ地方など北部のエリアでは、ドイツ軍の爆撃によってワイナリーやブドウ畑が多数破壊されたし、国全土がドイツの支配下に入ってからは、産地を問わずナチスに貴重なワインが強奪されもした。ターニングポイントは、1944年6月6日に連合国軍が敢行した、名高いノルマンディー上陸作戦だ。ここからドイツ軍の敗走が続き、同年8月25日にはまずパリが解放された。ドイツが最終的に無条件降伏をし、フランス全土が解放されたのが、1945年5月8日である。大戦中、勇気あるフランスのワイン生産者たちが、いかにナチスの弾圧・強奪と戦ったかについては、美談がいくつもあるのが、それはまたいずれ、別記事でお知らせしよう。前年の1944年には、対独レジスタンスの英雄であったシャルル・ド・ゴール将軍が、フランス臨時政府の主席となっている(ド・ゴールは、1946年に一旦主席を辞任するが、1958年にふたたび、第五共和政初代大統領に就任した)。

1944年8月26日、パリ解放直後にシャンゼリゼ通りで行なわれたパレード。ここから1945年5月8日までかけて、フランス全土がドイツの支配から解放された

ドイツでは、ヒットラー率いる第三帝国が瓦解した年だ。1月には、ドイツ国防軍がワルシャワから撤退し、ソ連軍が悪名高きアウシュビッツ強制収容所を解放した。2月にはドイツ東部の都市ドレスデンが、アメリカ軍の絨毯爆撃にあって、街の8割が破壊される。3月にはベルリンもアメリカ軍の空襲を受け、4月にはソ連軍との市街戦が、この首都で繰り広げられた。4月30日にはヒットラーが自害し、5月2日にベルリンは陥落している。なお、イタリアの独裁者ムッソリーニも、ヒトラーの2日前、4月28日に銃殺された。

アメリカ合衆国では、ニューディール政策によって世界恐慌(1929年~)後の経済を立て直した、フランクリン・ルーズベルト大統領が、1945年4月に死去。太平洋戦争(1941-1945年)開戦時の大統領であり、死の2ヶ月前には、戦後世界のレジームを決めた国際会議、いわゆるヤルタ会談に参加していた。ルーズベルトの死後、副大統領だったハリー・トルーマンが昇格し、広島・長崎への原爆投下を行なって、太平洋戦争を終結させている。

10月24日には、国際連合憲章の発効に伴い、国際連合が発足した。

日本の出来事

敗戦国となった日本の1945年は、当然ながらひたすらに暗い。3月10日の東京大空襲、3月26日には硫黄島の戦いが終結、4月1日にはアメリカ軍が沖縄に上陸して地上戦が開始、6月21日に沖縄占領と、苦い敗北の連続だ。極めつけは8月6日と9日の、広島・長崎への原爆投下である。そこから間もない8月14日、日本は、連合国側から突きつけられたポツダム宣言を受諾、9月2日に降伏文書に調印し、第二次世界大戦ならびに太平洋戦争が終わった。その直前の8月8日には、ソ連が日ソ中立条約を破棄して宣戦布告を行ない、当時は日本領だった満州、南樺太、北方領土へと侵攻している。8月30日には、ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官が、沖縄から厚木へとやってきた。9月11日には、東條英機元首相をはじめとする戦争犯罪人容疑者39人に逮捕令が出され、東城は自殺を図るが未遂に終わる。10月2日には、マッカーサーを頂点とする組織、連合国軍最高司令官総司令部、いわゆるGHQが設置され、1952年の主権回復まで、日本の占領統治を司ることになった。11月には財閥解体、12月には農地改革が、それぞれGHQの指令によってなされている。

8月6日、広島市に投下された原爆のキノコ雲

カルチャー(本、映画など)

日本では、芥川賞も直木賞も戦争のために中断されていた時期で(1945年から1948年まで)、当然ながら受賞作はない。この年に、日本で刊行された書籍でベストセラーになったのは、『日米会話手帳』という、32ページの英会話指南の小冊子だ。敗戦の翌月にすばやく発売されていて、累計360万部とバカ売れした。太平洋の向こうのアメリカでは、トーマス・B・コステインの時代小説、『Black Rose』がよく売れ、5年後にはオーソン・ウェルズ主演による同名の映画も撮られている。小説のほうは邦訳されなかったようだが、映画版は『黒ばら』の名で日本でも公開された。イギリスでベストセラーになったのが、イヴリン・ウォーの代表的小説、『ブライズヘッドふたたび』だ。ちなみに、イヴリンの兄であるアレック・ウォーも作家だが、ワイン通としても名高かった人物で、1959年に上梓した『In Praise of Wine』(邦訳:『わいん―世界の酒遍歴』)は、ワイン・ジャーナリズムの曙を照らした傑作だと評価されている。もう一冊、この年にイギリスで出た後生に残る文学が、ジョージ・オーウェルがスターリニズムを強烈に風刺した名作、『動物農場』である。

日本映画については、8月までは戦時中だったため、戦意発揚のための国策映画が多い。だが、黒澤明監督による『續姿三四郎』、成瀬巳喜男監督による『三十三間堂通し矢物語』といった、後年海外からも高い評価を受ける巨匠の手による作品もあった。アメリカ映画だと、この年のアカデミー賞作品賞は、レオ・マッケリー監督の『我が道を往く』だが、ただし公開は前年の1944年。同じ監督による続編、『聖メリーの鐘』が、1945年に封切られて大ヒットした。アルフレッド・ヒッチコックによる傑作のひとつ、『白い恐怖』もこの年の作品。ヨーロッパでは、ロベルト・ロッセリーニ監督が、伝説の『無防備都市』を撮り、ネオ・リアリズモの潮流の端緒となった。フランスでは、オールタイムベストにも頻繁にランクインする名作、マルセル・カルネ監督の『天井桟敷の人々』が、この年に撮られている。イギリスでは、今で言うダブル不倫を扱った作品、『逢びき』がヒット。監督をしたのは、後年『戦場にかける橋』、『アラビアのロレンス』などの大作をものにしたデヴィッド・リーンである。

ポピュラー音楽の界隈では、アメリカのレス・ブラウン楽団の曲 『センチメンタル・ジャーニー』が、この年の大ヒットとなった。歌い手は、当時この楽団の専属歌手だった女優のドリス・デイである。戦地から故郷に戻った復員兵たちのテーマ・ソングのように歌われ、時代の空気を映した楽曲となった。ジャズのスタンダード・ナンバーで、これまで数多のアーティストにカヴァーされている。

2. 1945年にはどんなワインが造られたか

ボルドーワインの1945年ヴィンテージ

第二次大戦の終結、フランス解放を祝うかのように、奇跡的なヴィンテージになったのがこの年。シャトー・ピション・ラランドの元当主 メイ・エリアーヌ・ド・ランクサンは、『神からの贈り物』と評した。後に触れるシャトー・ムートン・ロッチルド1945を筆頭に、非常に力強い骨格をもった偉大なボルドーが、多数生まれ出た。

ずっと穏やかな天候が続いた年ではない。真冬には大雪が降って、気温はマイナス10℃まで下がったのに、4月半ばには28℃と夏のような暑さを記録し、しかし同月の末から5月初旬には霜が降り、雪までちらついている。発芽の早いメルロには、霜の影響がかなり出た。ただし、5月にはまた暑さが戻ってきたため、霜のあとで再び芽吹いた梢が育ち、その被害の一部が補われている。開花は5月12日からと、史上でも指折りに早かった。7月は36℃に達する猛暑で、ウドンコ病が広く見られた。8月はやや涼しく、断続的に通り雨が降る天候のもと、ブドウは完熟へと向かい、9月10日に収穫が始まった。収量すなわち獲れたブドウの量は、遅霜ほかいろんな理由が重なって、多くの畑でヘクタールあたり15~20ヘクトリットルと、今日の水準から見ると極端に少なかったが、果房はほぼ完璧な状態だったという。低収量のおかげで果汁の風味は濃縮し、アルコール度数が15%に達するタンクもあったというから驚きだ(当時のボルドーでは、アルコール度数12%に達しないワインが普通だった)。収穫作業はすばやく進み、9月17日には完了という、非常に早いシーズンとなっている。なお、ソーテルヌの収穫は、ワインの性質上もっと長く続き、イケムの場合は9月10日に始まり、10月20日に終わった。摘み取りが完了してみると、8月から10月にかけて降った雨は、わずか13mmしかなく、シーズン前半の天候不順を、乾燥した晩夏と秋が補ってくれた形だ。

ボルドー地方のブドウ畑での開花風景

ブルゴーニュワインの1945年ヴィンテージ

1945年というと、どうしてもボルドーの偉大なヴィンテージというイメージが強いが、ブルゴーニュでも負けないぐらい、卓越したワインがたくさん生まれた。春の霜と夏の酷暑という天候イベントは、ブルゴーニュでも同じように発生し、収量はやはり非常に少なかったが、ワインの味の面では申し分のない、凝縮感が強く、骨格のある長寿ワインが産声を上げている。フランス解放をまたぐドタバタの世相だったために、防カビ剤などの物資と、それを散布する人手も不足していたが、乾燥した夏のために薬を使う必要があまりなかったという。

ブルゴーニュで霜が降りたのは、ボルドーより少し遅い5月3日だった。被害は大きく、シャブリ地区はほぼ全滅し、平年の3%の量のワインが、二番成りの果実から造られただけである。コート・ド・ボーヌ地区では、6月21日に雹が降って、霜で減っていた量がさらに削られた。それでも畑に残った果実は、続いた暑い夏にどんどん熟し、ボルドー同様、非常に高い潜在アルコール度数に達していく。収穫の開始は9月17日だったが、ロマネ・コンティの畑は遅摘みで、10月2日に摘み始められた。

仕込んだワインを瓶詰めする頃になっても、物資不足はまだ解消されておらず、コルク、瓶などのパッケージ資材の確保に造り手たちは苦労した。多くの銘柄が、1930年代に生産された余剰ボトルを使って瓶詰めされたらしい。そんな困難を経て売り出された1945だが、(ほぼ)ブルゴーニュ専門の批評家 アレン・メドウズによると、その味の強さゆえ、当初は飲みにくく、売りにくいワインだとして、あまりウケがよくなかったらしい。その類い希な熟成能力が明らかになり、年を経るうちに得られた絢爛豪華な風味が激賞されるようになったのは、後年の話だ。

その他の産地

フランスの産地は、軒並み恵まれたヴィンテージで、ローヌ地方も評価は「偉大」、エルミタージュとシャトーヌフ・デュ・パプが特に頭抜けていたらしい。シャンパーニュ地方でも、少量ながら腰が強く酸味がキリっとした、長命で素晴らしいワインが生まれている。ロワール地方、アルザス地方も同様に、傑出したヴィンテージとなった。戦敗の屈辱にまみれたドイツも、ワインの出来はフランス同様に大変良かった(量のほうも、同じく少なかったが)。長命な甘口ワインが多銘柄生まれている。ポルトも同じく、ほとんどの大手生産者がヴィンテージ宣言をし、少量高品質、濃縮した風味のヴィンテージ・ポートが誕生した。カリフォルニアでは、この年代からナパのボーリュー・ヴィンヤードが卓越の域に達するカベルネ・ソーヴィニョンを生産していたが、残念ながら1945は優れたヴィンテージには数えられていない。イタリアについては、1960年代末から始まる「ルネッサンス」を向かえる前の時代で、ほぼほぼ「質より量」のワインしか造られていなかった。ただし、ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ、バローロの二大古典産地では、少数ながら抜群に長命なワインが仕込まれたようだ。

伝説のワインは生まれたか

生まれた。それも多数だ。赤と甘口の白では、今もまだ十分生きていて、極上の悦びを与えてくれるワインは長いリストになる。もちろん、もし見つけられれば、もし対価を払えれば、という留保はつくものの。

「神の舌をもつ」と評されたアメリカ人ワイン評論家、ロバート・パーカーが創始した評価媒体 『ジ・ワイン・アドヴォケイト』が、100点満点を付けたこのヴィンテージのワインを列記すると、以下のような顔ぶれになる。

  • シャトー・ムートン・ロッチルド(ボルドー赤)
  • シャトー・オー・ブリオン(ボルドー赤)
  • シャトー・ラ・ミッション・オー・ブリオン(ボルドー赤)
  • シャトー・ラフルール(ボルドー赤)
  • シャトー・ディケム(ボルドー甘口白)
  • シャトー・ド・ファルグ(ボルドー甘口白)

ボルドーばかりが並んでいるのは、パーカーが職業的に試飲を始めた1978年の時点で、入手可能な1945の古酒が、ほぼボルドーのみだったからだろう。また、パーカーはボルドー好きで、ブルゴーニュへ与える点数が比較的辛かったのも、このリストの顔ぶれには影響していると思われる。

スティーヴン・スパリュアは、2010年に発表した『死ぬまでに飲みたい100本のワイン』という記事の中に、このヴィンテージの銘柄として、パーカーも100点を付けたムートンのほか、ランシュ・バージュ(ボルドー赤)、グラハムズ(ポート)、そしてロマネ・コンティ(ブルゴーニュ赤)を挙げている。

ブルゴーニュの頂点に位置する畑、ロマネ・コンティの1945年は、例年にも増して、いくつかの意味で希少かつ重要なワインである。まず、その味わいがとんでもなく素晴らしい点。アレン・メドウズは、このヴィンテージのワインで唯一、ロマネ・コンティに100点を献上している。そして、フィロキセラ前のブドウ樹から造られた、最後のヴィンテージである点。周囲のブドウ畑が、アメリカ系台木に接ぎ木した苗に植え替えを終えたのちも、ロマネ・コンティの畑ではこの年まで古木のピノ・ノワールを抜かず、植え替え以外の手段で厄介な寄生虫と戦い続けてきた。しかし、戦後の物資不足で薬剤が手に入らなかったため、1945の収穫後、樹はついに引き抜かれている(よって、1946年から1951年までは、ロマネ・コンティは生産されず、1945の次ヴィンテージは1952になる)。ロマネ・コンティに限らず、台木を使う前後でワインの風味が変化したかどうかは、今も論争の種のままで、はっきりした決着はついていないトピックである。どうあれ、「プレ・フィロキセラ」のワインを尊ぶプロや愛好家は、今も根強く、少ない数ではなくいるから、この年のロマネ・コンティの価値はそこでも高まった。そして、この年のロマネ・コンティの生産量は劇的に少なく、たった608本である(現在のロマネ・コンティの生産本数は、平均6,000本程度)。

しかし、このロマネ・コンティ 1945ですら、その名声の前には少々かすんで見えるのが、シャトー・ムートン・ロッチルドの1945だ。「20世紀最高の一本」だと推す声も多く、スティーヴン・スパリュアも上述の記事で、この銘柄を筆頭に挙げた。今につながる、ムートンのアート・ラベルが正式に始まったのもこのヴィンテージで、当時はまだ無名の若い画家だったフィリップ・ジュリアンがラベルに大きく描いたのは、戦勝(Victory / Victoire)を祝う「V」のマークだった。スパリュアによれば、このワインが発売されてからしばらく、ボルドーの上顧客であるイギリスの経済は冷えていて、たった1ポンドの値でも売れなかったそうだ(当時の1ポンドは、現在の貨幣価値に換算して40~50ポンド、すなわち8,000~10,000円)。そんな中「世界一古酒を飲んだ男」として仰がれた、故マイケル・ブロードベント(1927-2020)は、友人たちに「買えるだけ目一杯買ったほうがよい」と勧めて回ったという(ブロードベントも、ムートン 1945を「20世紀最高のボルドー」と評価する識者のひとりだ)。現在の市場価格を、ワインの価格検索サイトのWine-Searcherで調べると、新品のファミリーカーが買える264万円。ボルドーの古酒としては、ぶっちぎりの高価格である。

ムートン1945年のラベル。描いたのは画家フィリップ・ジュリアン。©Château Mouton Rothschild

3. 1945年ヴィンテージのまとめ

この年のボルドーやブルゴーニュでは、その時代では考えられないほど、熟したブドウが実った。その原因について、フランス人ワイン評論家のミッシェル・ドヴァスは、極端な低収量をあげた上で、背後には戦争があったと著書で述べている。もちろん、低収量を招いた主犯は春の遅霜だが、ブドウ樹の年齢が高かった点、数年間にわたって畑に肥料が入ってなかった点も影響したのだと言うのだ。樹齢が高くなったのは、若者が兵役に取られ、植え替えの人手が足りなかったせいだし、肥料を入れなかったのは全般に物資が不足していたからだ。決して、恵まれた環境下で成った果実ではなかったのである。しかし、その実りが仕込まれワインに変わったのは、戦争が終わり敵国の支配から解放された、祝祭ムードの中であった。「世紀のワイン」として語り継がれる歴史的名作の数々は、造り手にとっても飲み手にとってもひとしなみに、戦時の苦労をねぎらってくれるものだったのだろう。


【主要参考文献】
『世紀のワイン』 ミッシェル・ドヴァス著(柴田書店、2000)
『ブルゴーニュワイン100年のヴィンテージ 1900-2005』 ジャッキー・リゴー著(白水社、2006)
『ブルゴーニュワイン大全』 ジャスパー・モリス著(白水社、2012)
Jasper Morris, Inside Burgundy 2nd Edition, BB&R Press, 2021
Jane Anson, Inside Bordeaux, BB&R Press, 2020
Stephen Brook, Complete Bordeaux 4th Edition, Mitchell Beazley, 2022
Allen Meadows, Burgundy Vintages A History From 1845, BurghoundBooks, 2018
Michael Broadbent, Vintage Wine, Websters, 2006
Steven Spurrier, 100 Wines to Try before you Die, Deanter, 2010
Robert Parker’s 100-Point Wines, Wine-Searcher

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